ハリー・ポッターと炎のゴブレット(第37章前半)

悲劇的な第三の課題の次の朝、ハリーはディゴリー夫妻に会った。
「二人とも、あの出来事に対して、ハリーを責めなかった。それどころか、セドリックの遺体を二人のもとに返してくれたことを感謝した」と書かれている。
ここを読んだ時の第一印象は、違和感だった。
第6章に登場したエイモス・ディゴリーは、悪い人ではないが単純人間という印象で、本人の目の前でハリーを見下し、息子をあからさまにほめるような男だった。そのディゴリーが、ハリーを責めないというのは不自然じゃないのか?
この作品では、登場人物のキャラぶれがほとんどない。シリウスやピーターのように、途中で評価がひっくり返る人物はいるが、ひとりひとりのキャラクターは一貫している。ぶれを感じたのは、この場面のエイモスのふるまいだけだった。
この違和感は解決しなかったが、今年出版された「呪いの子」では、最初の印象どおりの「相手の立場を考えない、単純人間のエイモス」に戻っている。

ハリーは賞金をディゴリー夫妻に差し出したが、ディゴリー夫人は「それはあなたのものですよ」と断った。「半分ずつにすればいいのに」と思いながら読んだ。
でもここで半分ずつ分けてしまったら、フレッドとジョージが店を始める資金としては十分じゃないのだろう。

ロンの話では、母のモリーダンブルドアに、夏休みが始まったらハリーをウィーズリー家に預かってもいいか尋ねたという。ダンブルドアの答えは「少なくとも最初だけはダーズリー家に帰す」だった。
ダンブルドアにはダンブルドアなりの考えがあると、モリーはロンに言ったようだが、この時モリーは、「ハリーがダーズリー家を自分の家とする限り守られる」ということを聞かされたのだろうか? それとも、理由を説明されないままにダンブルドアを信じたのだろうか? いくら秘密主義のダンブルドアでも、この時はモリーに理由を打ち明けたと思いたい。

三人は第三の課題後初めて、ハグリッドの小屋を訪ねた。
「オリンペとお茶を飲んどったんじゃ」「たった今帰ったところだ」とハグリッドが言う。
いつのまにか、マダム・マクシームをファーストネームで呼ぶ仲になっていたのだ。
三人のこどもたちは、マダムとハグリッドが仲直りしたと単純に思っただけだったろう。「ダンブルドアに、この夏にやる仕事をちょっくら頼まれた」と聞かされても、それほど深刻にはとらなかったと思う。
しかしこのあとのハグリッドとマダムは、これからふたりで、巨人との危険で困難な交渉にあたらなければならない。決してのんびりとお茶を楽しんでいたわけではないだろう。

愚かなふるまいの多いハグリッドだが、時にはいいことを言う。この日もそうだった。
「やつが戻ってくると、わかっとった」「そんで今、こうなったんだ。俺たちゃ、それを受け止めるしかねえ」と。
「来るもんは来る。来たときに受けて立ちゃええ」というハグリッドのせりふは、人生のいろんな場面で使える名言だと思う。