ハリー・ポッターと謎のプリンス(第10章前半)

プリンスの教科書を手にして一週間。ハリーは教科書の書き込みのとおりに魔法薬を調合した。書き込みはしばしば、教科書の指示と違っていたのだ。それがすべてうまくいき、こんなに才能のある生徒はめったにいないとスラグホーンはほめた。
ハーマイオニーは当然教科書どおりの操作を続けていたが、ハリーほどの結果が出なかった。

土曜日の午後8時がやってきた。ダンブルドアの特別授業の時間だ。
校長室へ歩いて行く途中、トレローニーが廊下を通っていた。ここで「曲がり角からトレローニー先生が現れたので、急いで銅像の陰に隠れなければならなかった」と書かれているのは不思議だ。スネイプが相手なら隠れる必要もあるだろうが、トレローニーなら普通にすれ違えばいいだけで、仮に何か不吉なことを言われても聞き流せばよいだけのことだ。
このときトランプを切りながらトレローニーがつぶやく。「黒髪の若者。おそらく悩める若者で、この占い者を嫌っている」と。この時のトレローニーの占いは当たっている。彼女にはちゃんと才能があるのだろう。
ギリシャ神話のカッサンドラを連想した。もっともカッサンドラの場合は、まわりの人たちがカッサンドラの予言を信じないのだが、トレローニーの場合は、彼女自身が自分の予言の正確さを知らないのだ。腹が立つ言動も多いけれど、基本的には気の毒な人だ。

校長室でダンブルドアが用意していたのは、ペンシーブだった。
「今度は、わしと一緒にこれに入る……さらに、いつもと違って、許可を得て入るのじゃ」というダンブルドアのせりふに、思わずクスリと笑ってしまった。「炎のゴブレット」でも「不死鳥の騎士団」でも、ハリーは勝手にペンシーブの中に入っていたのだ。

ペンシーブの中でハリーが見たのは、ボブ・オグデンという魔法省の役人だった。彼は「リトル・ハングルトン」という立て札のそばを通った。「炎のゴブレット」の冒頭にでてきた村の名前だ。
彼が立ち止まったのは、人が住んでいるとは思えないほど荒れた粗末な家だった。

彼の前に、髪がぼうぼうの男がたちふさがった。そして、話しかけたが、ハリーには理解できるその男のことばが、彼には理解できないようだった。
「君にはきっとわかるのじゃろう、ハリー?」とダンブルドアが言ったので、ハリーはそれが蛇語だとさとった。
ここのやりとりだけを見ていると、ダンブルドアは蛇語を解さないように思える。しかし原作者は、ダンブルドアは蛇語もマーミッシュ語も習得したと言っている。ダンブルドアにもこの会話がわかったと解釈するべきだろう。

おもしろいのは、ペンシーブの記憶の性質だ。本人の記憶でありながら、第三者視点で再生される。
オグデンが理解できなかったはずの蛇語も、ハリーにわかるように再生されているのだ。普通の人間の記憶なら、自分にわからない言語でのやりとりを正確に再生できることはあり得ない。

髪がぼうぼうの男はモーフィン・ゴーントで、この家にはモーフィン、父親のマールヴォロ・ゴーント、それに妹のメローピーが住んでいた。
モーフィンが魔法法を破ってマグルを攻撃したので、オグデンは尋問の召喚状を持ってきたのだった。しかしマールヴォロもモーフィンも、素直に応じない。汚らしいマグルに焼きを入れただけだとうそぶく。
ここでマールヴォロは、ペベレル家の紋章がきざまれたという指輪を見せ、何世紀もさかのぼれる家系だと自慢する。それに、メローピーが首にかけていたロケットはスリザリンのもので、自分たちはスリザリンの末裔だという。
スリザリンの名はホグワーツ創始者のひとりとして、また寮の名として、読者におなじみだ。しかしペベレルの名前はここが初出だと思う。このあと重要アイテムとなるロケットと指輪が、ここで登場してくるのだ。

オグデンが召喚状を読み上げようとしたとき、外の道を馬が通っている物音が聞こえ、馬に乗っている男女の声も聞こえてきた。男の方はトム、女の方はセシリアと呼ばれていた。
ここで男の声が「セシリア、ねえダーリン」と言うのは、わたしには奇妙に聞こえる。確かに原文ではトムがセシリアに「ダーリン」と呼びかけているけれど、日本語の中で「ダーリン」と呼ばれるのは男だというイメージがわたしにはある。ここは「ねえ、いとしいセシリア」「ねえ、かわいいセシリア」とかいうふうに意訳してほしかった。

オグデンには理解できなかったが、ハリーにはモーフィンとマールヴォロのやりとりがわかった。メローピーはトムに惹かれている。しかし純血を誇りにしているマールヴォロは、マグルに心惹かれるなどということは許せない。そして粗暴なモーフィンは、トムに呪いをかけて痛みをともなうジンマシンを生じさせたのだ。

モーフィンにナイフと杖で攻撃されたオグデンは逃げ出し、栗毛の馬にぶつかった。馬にはハンサムな黒髪の青年が乗っていた。セシリアと呼ばれた女性はもう一匹の葦毛の馬に乗っていた。そこまで見届けてハリーとダンブルドアはペンシーブから出た。
このトムが、のちのヴォルデモートの父親であり、メローピーが母親というわけだ。ただ、セシリアはその後登場しない。